明治・大正名所 探訪記

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<<   作成日時 : 2016/03/08 21:19   >>

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 最近、虎ノ門ヒルズの前で気になる看板を見つけました。いま東京都港区内を歩くと、ちょくちょく旧町名を説明する看板が街々に掲げられていることに気が付きます。たいへんに良い取り組みだと感じていましたが、さて、その気になる看板には次の通り記載されていました。
葵町/明治5年、武家地が合併して溜池葵町となり、明治44年、冠称の溜池を廃して「葵町」と改称されました。町名は「葵坂」があったことに由来します。溜池の南端は堰になっていたので、池の水が滝となって流れ落ちており、この滝口へ上がる坂が「葵坂」で、坂上の辻番所には蜀葵(カラアオイ)が多く植えられていたと伝えられています。名高い坂でしたが、道路改正により現在はほとんど平らで坂という名を残すだけとなっています。」と。
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△木版画 東京真画名所図解「葵坂」(井上安治作、明治初期)


 で、一緒に掲げられている広重作「江戸名所 虎ノ門金毘羅」には、お濠(堀)の左下に現在もこの地に鎮座する「虎ノ門金刀比羅宮」が見え、その先、お濠の奥に滝のようなもの、洗堰(あらいぜき)があります。その洗堰の左手に「葵坂」と呼ばれる坂が存在していました。現在、虎ノ門周辺にはお濠や坂は勿論のこと、かつて滝のような洗堰があったことを示すようなものは何も残っていません。ちょっと興味をひかれて、調べてみることにしました。
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△江戸名所 「虎ノ門金毘羅」(広重作)
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△旧町名 表示看板「葵町」


 洗堰が注ぎ込んだお濠は、江戸城の外濠に当たる「溜池」から流れ出て、虎ノ門、新橋を通って浜離宮あたりで江戸湾へとつながっていた「汐留川」の一部です。溜池の上流は「桜川」と呼ばれていたらしく、水源は現在の新宿区若葉町あたり。紀州藩邸(現・赤坂離宮)を通り抜けて弁慶濠へ注ぎ込み、そして溜池となり、虎ノ門外で洗堰から汐留川へと流れ込んでいました。「桜川」は別称「赤坂川」とも呼ばれていたようです。この風情のある「桜川」という名前ですが、紀州藩邸の庭園に咲く桜が散ってこの流れに花びらが浮んで流れ出たことから命名されました。
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△名所江戸百景 「虎ノ門 あふひ坂」(広重作)




 天正18年(1590)、徳川家康公の江戸入府直後に問題となったのが飲料水の確保であったと云われています。のちに神田上水や玉川上水などが開削されますが、江戸入府直後に、桜川の流れが堰き止められて「溜池」とされ、その水は飲料水(上水)に利用されました。江戸名所図絵によると、「溜池は、赤坂御門の外より、山王宮の麓の東南へめぐる。昔神田、玉川の両上水、いまだ江城の御もとへ引せ給はざりし其れ以前は、此の池水を上水に用られしとなり。」と記されています。また三代将軍家光公は、「水泳を御自らなされ、溜池の内藤左馬助政長が家に成らせられしとき、または城溝にても度々浮遊し給ひし事あり。」との記録も残されているそうです。
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△溜池交差点付近に設置されている「溜池発祥の碑」


 さて、昭和44年に発行された「赤坂・青山」という冊子に、虎ノ門外の洗堰についての記述をみつけました。 
どんどん/葵坂の北側が溜池から流れ出る水の落ち口になっていて、どうどうと音を立てていたことからきている。旧満鉄ビル(現・商船三井ビル)の北側のへんにあたるが、溜池の埋め立てられたものである。」(港区教育委員会刊)
 冒頭の木版画は、明治14年から22年にかけ、版画家・井上安治によって描かれた「東京真画名所図解」シリーズの一枚「葵坂」です。明治初期まで洗堰(どんどん)が東京名所として存在していたことが判ります。明治初期、溜池の大きさは13町12間であったと云われ、つまり約1,440bの長さがありましたが、明治8、9年頃から埋立てが始まり、明治21年12月に埋立てが完了します。埋立地は2万3,054坪に及んだと記録されています。この頃までに洗堰も埋め立てられ、消滅したようです。
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△特許庁前の外堀通りと新虎通りの合流地点に洗堰があった!



 では葵坂はどこにあったのか(・・? 江戸の切絵図と見比べると、葵坂は虎の門病院からJTビルの間の新虎通りにあったようです。葵坂は木版画を見ると相当の勾配の坂のようですが、溜池の埋立ての際に坂が削り取られて溜池の埋立てに使われ、坂は平坦にされたそうです。確かに虎ノ門ヒルズ前から特許庁を望むと、僅かながら上り坂になっているのが分かります。
 「新撰東京名所図絵」の記述によると、「葵坂は、芝区西久保明船町より溜池町に通ずる道路を云ふ。此の所、今も多少の勾配なきにあらざれども、殆んど平坦にして坂と云うも名のみに止れるなり。昔、溜池の端より虎ノ門外へ下る坂なり。坂の上の辻番所に蜀葵(タチアオイの古名)を多く栽置るよりの呼名なり。」とあり、さらに、「葵の岡、今はなし。旧葵坂上の小丘一帯を総称したるものなるべし。」ということは、現在も少し高台となっている米国大使館から首相官邸へは小高い丘が続いていて、その丘をえぐるように汐留川が流れ、洗堰(どんどん)があったということです。
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△新虎通りから特許庁方面を望む



 最後に、広重や安治の木版画の画面右側に石垣が描かれていますが、これは江戸城の「溜池櫓台」の一部です。この石垣は、寛永13年(1636)に因幡鳥取藩主池田光仲によって構築された櫓台です。その櫓台(隅櫓の石垣)の上部の一角が発掘されて、虎ノ門三井ビル敷地内に保存されていました。広重や安治が描いた風景の一部が奇跡的に残ったことは、ちょっと感動ものですね。

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△国史跡 江戸城外堀跡 溜池櫓台
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△看板 溜池櫓台


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△今も変わらず虎ノ門に鎮座する「虎ノ門・金刀比羅宮」









   


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