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武蔵国と下総国と二国を結ぶ隅田川に架かる橋を「両国橋」と呼び、両国橋をはさんだ隅田川の両岸の総称として「両国」が使われました。しかし、現在の両国は下総国側(墨田区側)だけとなっています。両国は江戸屈指の歓楽街として栄えましたが、特に両国橋西詰の両国広小路は見世物などの小屋が立ち並んで賑わったそうです。 △明治40年「東京名勝」 両国橋の川開きと回向院相撲の本場所 現代人の私たちにとっての両国は、「両国花火」と「両国国技館」だと思います。 1732年(享保17年)に起こった全国的な大飢饉や江戸におけるコレラの流行を受けて、八代将軍徳川吉宗が死者の弔いと悪病退散を願って、両国にて水神祭と施餓鬼を行いました。この際に花火を打ち上げて、川開きを同時に行ったことが両国花火の始まりといわれています。 さて今回は、明治・大正名所の探訪を標榜している私にとって聖地である両国の新名所「江戸東京博物館」を訪ねました。 「十二階」の名で親しまれた「凌雲閣」(りょううんかく)は、英国人のウィリアム・バルトンの設計によって、明治23年に落成しました。場所は現在の浅草花やしきの西側にあたり、浅草六区を見下ろすようにに建てられ、高さは220尺(67b)。その名の通り12階建てで、10階までは八角形の煉瓦造り、その上は木造だったようです。日本初のエレベーターが付けられましたが、故障がちで、結局人々はらせん階段を昇ったようです。 当時の人々は、「十二階の上で見ると、左は伊豆の火山群から富士、丹沢、多摩、甲信、上毛、日光をぐるりと細かに指点することが出来る」と記しています。 浅草は、明治に入って浅草公園として東京府から指定され、多くの見せ物小屋は「ひょうたん池」を中心とした公園地第六区に移転してきました。この「十二階」も建設され、映画、芸能、演劇のメッカ「浅草六区」として発展し、盛り場「浅草」の黄金時代を築きました。しかし、「十二階」は大正12年9月1日の関東大震災によって倒壊してしまいました。 江戸東京博物館において、この「十二階」(凌雲閣)が1/10で復元されていました。「十二階」は東京のランドマークとして、明治・大正期の絵葉書や名所絵版画にたびたび登場します。 △明治37年 「東京名勝」 浅草凌雲閣の図 大正12年9月1日、突如として関東地方を襲った地震は、東京の大半を焦土と化して、5万8千人の犠牲者を出しました。「関東大震災」です。 このうち、最も惨禍を極めたのが陸軍被服廠跡でした。ここに慰霊堂を設置することとなり、広く浄財を募って、昭和5年9月に竣工しました。場所は江戸東京博物館の北側になります。 この慰霊堂の中には、震災直後に悲惨さを後世に伝えるため、被災者の話をもとに描かれた絵画が掲げられています。このうち「十二階」が崩落する様子が描かれた絵画が一番すみに奉納されていました。 △「第一震 十二階の崩壊」 【説明文】 ◇浅草公園六区の北に凌雲閣と称えた、 ◇十二層の煉瓦造りの高塔が聳えていた。 ◇観覧者が眺望のために登っていたが、 ◇この塔は第一震で上部の三分の一が ◇切断崩壊して塔下の民家の屋上に墜落した。 △「日本橋付近 災害の夜景」 【説明文】 ◇だんだんと火災が拡がって ◇何時この付近まで延焼してくるか ◇判りにくいので ◇土蔵の目塗り消防の準備と避難の ◇手配に混乱ておった時の光景 せっかく両国まで来ましたので、帰りに両国駅近くで「ちゃんこ定食」をいただきましたが、お店の中に土俵があったのにはびっくりしました。 東京駅に向かって総武線にのりましたが、隅田川にかかっている鉄道橋も歴史的文化財と説明文があり、感心しました。昭和7年築だそうです。 |
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