東京名所 三番町東郷邸

 明治後半の大きな出来事と呼べるのが日露戦争(明治37-38年)です。この日露戦争において二人の英雄が誕生しますが、一人が先のブログで紹介した陸軍の乃木希典大将であり、もう一人が海軍の東郷平八郎大将でありました。
 対露戦の勝敗を決したと云われるのが、明治38年5月27日に対馬沖で行われた「日本海海戦」です。この戦いで、東郷大将は連合艦隊司令長官として旗艦「三笠」に乗艦して日本の連合艦隊を指揮し、ロシア海軍の太平洋艦隊を壊滅させ日本側に大勝利をもたらしました。この勝利は、戦争継続が厳しい国家財政となっていた日本側にとって、ポーツマス講和会議への道筋をつけたと云われてます。
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    △絵葉書 「東郷邸正面」
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 東郷平八郎は、弘化4年に薩摩藩士の四男として生まれ、薩英・戊辰戦争に参加後、イギリスに留学し、日清戦争では戦艦「浪速」の艦長として出征しました。明治37年の日露戦争では連合艦隊司令長官として日本の艦隊の指揮を執り、明治38年の日本海海戦では戦艦「三笠」に乗艦して、みごとな丁字法、東郷ターンを一糸乱れずに決めています。
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    △日露交戦 戦勝記念「日本海大海戦 東郷大将」(明治38年)



 さて、冒頭の絵葉書にある「東郷邸」とは麹町区三番町にありました。この辺りは、徳川家康によって江戸城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせたことから「番町」という地名になりました。明治期になると、かつて武家屋敷であったところは、伯爵、子爵などの華族や政府役人の邸宅となりました。
 日露戦後、大正2年に元帥となった東郷平八郎は、この三番町の地に明治14年より昭和9年まで居住しました。昭和8年暮れに病床につき、昭和9年5月30日に没します。86歳であったそうです。6月5日には国葬が執り行われ、東郷邸から葬祭場となった日比谷公園までの沿道では百数十万人が見送ったと云われています。
 この東郷邸の一段低くなっている敷地は、関東大震災の復興計画として昭和4年7月に「上六公園」として先に開園していましたが、元帥の没後、東郷邸が「東郷元帥記念会」から東京市へ寄付され、昭和13年11月に「東郷元帥記念公園」として一体整備されます。
 園内には乃木邸のように建物はいまは一切残っていませんが、東郷邸の玄関脇にあったと云われるライオン像が残されています。子どもたちのための遊具も設置され、公園の真ん中には「震災対策用応急給水施設」があり、地下に水が蓄えられています。
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 また冒頭の絵葉書の右手に「東郷坂」と刻まれた砲弾型の石柱がありますが、正面玄関から南へ、半蔵門駅下っていく坂道が「東郷坂」です。説明書きによると、「東郷元帥邸の西側にあたるこの坂は、明治38年10月、当時の麹町区会の議決により命名されたといいます。むかしは東郷坂のところを法眼坂、それから南法眼坂につづいていたといいますがはっきりしていません。今は東郷坂、法眼坂(行人坂)、南法眼坂の三つの名にわかれていますが、古い地図を見ると「法眼坂」のみ書ています。」とのこと。是非とも「東郷坂46」みたいなものを結成して欲しいと思います。
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