明治・大正名所 探訪記

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zoom RSS 東京名所 赤坂見附 北白川宮邸

<<   作成日時 : 2017/03/05 16:22   >>

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 日露講和条約は、明治38年9月5日に米国ポーツマスで調印されました。前線では9月8日前後に兵士の間で「講和成立休戦になる」との噂が広がっていましたが、ようやく9月16日正午を以て戦闘が停止したらしい。ただちに大本営は全軍に休戦を命ずるとともに、復員の準備に取り掛かります。帰還部隊の乗船地を大連や柳樹屯などに定められます。かくして、10月16日に「平和克服の詔勅」が下されて、実際には11月7日より大連や柳樹屯から帰還が始まり、翌39年3月26日の第十六師団が最後となりました。凱旋した兵士は、品川駅より各々の兵営へ向かうこととなりましたが、東京の街中には凱旋門や緑門、凱旋塔が設けられ、帰還兵は東京で大歓待を受けることとなります。
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△絵葉書 「凱旋大観兵式々場へ御行幸の景」(赤坂見附)
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 最高潮を迎えたのが、明治39年4月30日の「陸軍凱旋大観兵式」でした。明治天皇行幸のうえ、青山練兵場(現・明治神宮外苑)で執り行われ、近衛師団、第一師団を筆頭に全国の師団が参加しました。参加者は、将校2,124名、兵士29,079名、計31,203名にのぼりました。皇居から青山練兵場までの道々には人々が集まって、たいへんな賑わいとなりました。

 さて、この絵葉書は皇居を出た明治天皇の鹵簿(行幸の車列)が、赤坂見附の坂を青山方面へ下ってくる様子が写し出されています。注目すべきは、赤坂見附の上に写っている建物です。「北白川宮邸」です。この宮邸の「煉瓦基礎遺構」が昨年出土しました。建物の老朽化に伴い、惜しまれつつも営業を終了した赤坂プリンスホテルの跡に、昨年完成した「東京ガーデンテラス紀尾井町」の敷地内に保存展示されています。このガーデンテラスには、オフィス、ホテル、商業施設等を備える『紀尾井タワー』と135戸の賃貸住宅を有する「紀尾井レジデンス」が建設され、赤プリの敷地内にあった「旧李王家東京邸」も保存活用されていますが、その敷地内から出土されたものです。
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△旧北白川宮邸洋館の煉瓦基礎遺構
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説明板/平成23年、旧李王家東京邸(現・赤坂プリンスホテルクラシックハウス)の保存工事の過程で地中より旧北白川邸洋館の煉瓦基礎が発見された。この地は、紀伊徳川家江戸上屋敷跡で、明治時代になって北白川宮能久親王に下賜され、明治17年に洋館を中心とする大規模な殿邸が建設された。洋館は煉瓦造2階建の壮麗なゴシック建築で、設計者はジョサイアコンドルであった。その後、北白川宮邸洋館は明治27年の東京地震によって被害を受け、翌年には能久親王が逝去してたことから、3階と西側が撤去縮小され、玄関ポーチも北寄りに移された。明治45年、北白川宮家は高輪南町の新邸に移転し、跡地には昭和5年に李王家東京邸が建設された。発見された煉瓦積基礎には上質の煉瓦が用いられており、目地にセメントを用いた丁寧かつ堅牢な造りであった。この遺構はその一部で、玄関ポーチの独立柱の基礎であったと考えられる。

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△旧李王家東京邸(赤坂プリンスホテルクラシックハウス)
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△東京ガーデンテラス紀尾井町


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△史跡「江戸城外堀跡 赤坂御門」







  
 

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