明治・大正名所 探訪記

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zoom RSS 東京名所 洲崎遊廓

<<   作成日時 : 2016/06/19 18:23   >>

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 江東区の永代通りにある東陽三丁目交差点を南へ入った一角に、かつて「洲崎遊廓」がありました。
 「江東区史」によると、「洲崎遊廓は明治21年に本郷根津遊廓が移転してきたものを元々としてできたのである。…根津の遊里は水野越前守の天保13年(1842)の弾圧によって一時は全滅した。阿部伊勢守の緩和政策によって、…根津にも芸妓屋、料理屋が復活し、その勢いに乗じて慶応4年(1868)に幕府の陸軍奉行から根津に遊廓設置を許可したのである。この年、明治元年と改元せられ、明治政府は根津遊廓の廃止を目論んだがその既得権は容易に動かず、あるいは明治3年から五か年計画と制限されたが、業者はこれを拒否した」と。
 しかし、根津遊廓が帝国医学校の直下に当たる場所にあって教育上相応しくないことから、明治政府は明治17年に強制的に遊廓の退去・移転を厳命したのでした。
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△石版多色刷り版画 東京名所「洲崎夜景」(明治31年刊)(遊郭を北西方面から見た構図、現在の木場6丁目は埋立されていない)
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△旧洲崎橋(大門跡、北側)からみた現在の「旧・洲崎遊郭」の様子



 根津遊廓の洲崎への移転期限は明治21年6月30日と決し、深川平井新田と堀を隔てて南側の東京湾を埋め立てる工事が東京府の手によって行われ、明治21年に竣工します。東京湾に突き出たような新たな土地約六万坪が出現し、「洲崎弁天町」と名付けられました。現在の江東区東陽一丁目あたりです。この新たな埋立地の北西角地に「洲崎弁天社」が鎮座していたことから、こう名付けられました。
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△洲崎神社(旧・洲崎弁天社)
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△東京地区改正全図(明治23年刊)


 最初に根津から移転したきたのは貸座敷83軒であったと云われていますが、大正末の最盛期には妓楼270軒、芸妓(芸を売る人)30名、娼妓(体を売る人)2,700名程と云われています。娼妓の娘たちは、山形、秋田、岩手、青森など主に貧しい東北地方の出身者で、小さい頃に連れて来られた娘もいて、客を取れる齢になるまでは台所で皿洗いなどをしていたという。大きな妓楼には娼妓は20-30名ほど、小さな店では6,7名程度でありました。
 営業時間は午後8時から午前2時まで、入り口は東陽三丁目交差点付近にあった「洲崎大門」一箇所で、廓に入るには堀に架かっていた「洲崎橋」を渡ることになります。南、西、東側は海に、北側は堀に囲まれた遊廓でした。
 娼妓たちは午後5時頃に屋台売りからおかずを買って夕飯を済ませますが、夜中にお腹が空くと「退け飯屋」という売り子が回ってくるので、お客に夜食を御馳走させるのが習わしとなっていました。朝の8時までにはお客を帰し部屋の掃除をして、午前10時頃に就寝、午後4時頃に起きるという毎日だったそうです。
 お客は、木場の川並鳶(かわなみとび)や船頭、沖仲仕(おきなかせ、荷揚屋)、漁師、工員などで、廓内では喧嘩が絶えなかったため深川警察署の分署が設置され、また軍人の出入りも多かったため憲兵屯所が設けられました。

 戦後「洲崎パラダイス」として復活しましたが、昭和33年4月1日に施行された売春防止法により、70余年の歴史に幕を引き、静かな住宅街へと生まれ変わっています。

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△洲崎橋跡地の碑
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△いまも弁天の名が残る「東陽弁天商店会」
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△商店街で天玉丼を頂きました。
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△冒頭の石版版画が描かれたと思われるのが洲崎神社近くの八幡堀あたり(堀の右手は後から埋め立てられたもの)

*無断転載・複製を禁ず









  



 

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