明治・大正名所 探訪記

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zoom RSS 東京名所 市ヶ谷台

<<   作成日時 : 2016/05/08 20:20   >>

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 牛込御門(飯田橋)から赤坂御門に続く江戸城外濠は、寛永13年(1636)に三代将軍家光公の命により、東国の大名52家が分担して開削したものです。この外濠は巧みに地形を取り入れて造成されており、牛込から市ヶ谷付近は神田川から伸びる支流・谷筋を利用しています。この谷筋は元は「紅葉川」と呼ばれていたらしく、新宿区富久町に発して曙橋付近から市ヶ谷に至る川で、その下流は堰き止められて、現在外濠となっているという訳です。
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△絵葉書 「陸軍士官学校」(東京名所)
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△現在はビルが建て込んでいて、緑の屋根の防衛省建物は僅かしか確認できず


 JR市ヶ谷駅を出て左手に外濠を見ながら市ヶ谷橋を下っていくと、目の前に「防衛庁」の庁舎が見えてきますが、その昔は「陸軍士官学校」がこの地にありました。
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 明治4年、「市ヶ谷台」と呼ばれた丘の上に広がっていた尾張藩邸を、薩摩・長州・土佐等の御親兵八千人の一部が兵営として利用し始めます。その後、明治7年から昭和12年まで「陸軍士官学校」(陸士)が置かれました。絵葉書にある陸士の建物は明治8年築で仏国サンシール士官学校を模したもの。陸士では当初フランス式の教育が行われました。これは、開校当初、フランスからジョルダン大尉を顧問として招いたからでありました。写真の現建物は、平成10年に六本木から移ってきた防衛省の建物です。
 東京名所図絵(明治23年)の記述を紹介しますと、「陸軍士官学校は市ヶ谷八幡の南に在り、旧名古屋藩の邸第なり。陸軍士官を養成する所なり。土地頗る高燥にして、眺望に可なり。建築は巨大壮観なり、門の左りに陸軍教導団あり」とのこと。




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△東京名所図絵「監獄入口の図」(差入店の看板が見える)
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 さて、防衛省前の靖国通りを新宿方面へ向かうと、地下鉄「曙橋」に到達します。北側は高台となっていて、陸軍士官学校から続く「市ヶ谷台」の一部で、ここに「市ヶ谷監獄署」がありました。
 明治8年5月に小伝馬町にあった「伝馬町囚獄」が移されたもので、当初は「市ヶ谷囚獄」と呼ばれました。この市ヶ谷囚獄の地は、江戸時代、備中松山藩邸や武蔵六浦藩邸が広がっていた場所です。江戸町奉行が囚人を収監していた小伝馬町牢屋敷を引き継いだ明治政府でしたが、街なかにこういう施設があることは不都合が多いとして、この市ヶ谷台へと移ってきたという訳です。



 市ヶ谷囚獄は東京府から警視庁へと移管されるのに併せて、明治10年、「市ヶ谷監獄署」に改称されます。その後、明治43年には豊多摩郡野方村(中野区野方)へと移転していきました。
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△絵葉書「市ヶ谷 観音堂建立地鎮祭」

 跡地は公園などとなり、地元の人たちによって観音堂が建立されます。高村光雲作の等身大の大観音像が祀られました。上の絵葉書は大正2年5月19日に執り行われた「観音堂建立地鎮祭」の様子を写し出したものです。しかし、大正12年の関東大震災によって、青銅製の大観音像は根元より折れて倒壊し、その後戦争のために供出されてしまいました。光雲作、たいへんに残念です。
 東京名所図絵(明治23年)の記述を紹介しますと、「市ヶ谷監獄署は月桂寺の南に在り、石川監獄署と同じく東京監獄本署の分署とす。囚徒常に千人在監す。構内頗る広く、囚徒の工作所等多く要害最も堅固なり」とのこと。

*無断転載・複製を禁ず


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△帰りは、市谷亀岡八幡宮を参詣
 東京名所図絵(明治23年)の記述を紹介しますと、「市ヶ谷八幡は、市ヶ谷御門外に在り。祭神は応神天皇なり。文明年間、太田持資、江戸城鎮護のために相州鶴ケ岡八幡を勧請すと云へり。徳川氏に及び社領を付し朱印を賜ふにより社殿輪奐宏壮を極むるに至ると云ふ」とのこと。




  




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