明治・大正名所 探訪記

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zoom RSS 水戸名所 偕楽圓

<<   作成日時 : 2016/03/20 06:01   >>

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 先般、開催中の「第120回 水戸の梅まつり」に行ってきましたが、天気が悪くて残念でした。梅の名所「偕楽園」は天保13年(1842)に水戸9代藩主、徳川斉昭公により造園されました。幕末維新において世論を先導した斉昭公は「烈公」と呼ばれ、水戸藩において改革派の人材を登用し西洋式軍備を導入、民政を重視して藩財政基盤の再建を勧め、ペリー来航後に尊攘派としての立場を貫き、老中・井伊直弼と対立していきます。
 この偕楽園は、藩主のみならず藩士、領民が共に遊息するために造られたもので、千波湖に臨む七面山を切り開き、領内の民と偕(とも)に楽しむ場を願い「偕楽園」と命名されます。約13haの園内には約百品種・三千本の梅が植えられています。
 明治6年には太政官布告により「常磐公園」となり、明治29年には上野駅〜水戸駅間が開通すると、これを記念して「第一回 観梅デー」が開催されます。それから今年でちょうど120年ということで、歴代の梅むすめが集った第120回の記念の梅まつりが開催されていました。
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△常陸名所図 「偕楽園」(明治38年刊)
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△偕楽園から臨む千波湖
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△水戸斉昭公像

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△歴代 梅むすめ
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 明治22年刊の「日本名所図絵」には、『偕楽園は、天保十年に烈公の創設にして県庁を距る西二十町、常盤村の裡に在り、園裡の廣□東西長く、二百間南北八十間、西南桜川に沿う所、梅樹を栽る五千余株。茲に樂壽楼を設け、小亭を好文亭と呼ぶ。』 とあります。


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△常陸名所図 「好文亭」(明治38年刊)
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△黄門さまご一行と記念撮影サービス

 園内にある「好文亭」は、斉昭公自らが設計したもので、木造2層3階建ての好文亭本体と木造平屋建ての奥御殿からなり、斉昭公は文人墨客や家臣、領内の人々を集めて詩歌や慰安会を開催しました。残念ながら、昭和20年の水戸空襲により焼失し、昭和30年から3年かけて復元されたものです。平成23年3月11日のあの大震災では好文亭の壁などが損傷したり、公園のり面が崩れるなどの被害がありましたが、復旧したところだそうです。



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△常陸名所図 「第二公園 弘道館」(明治38年刊)
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弘道館/水戸藩の藩校として斉昭公により、天保12年(1841)に創設。武芸一般はもとより、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問を採用。のちに第15代将軍となった徳川慶喜公も、父斉昭公の厳しい教育方針で5歳の時から弘道館において勉学に励む。



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△常陸名所図 「水戸停車場」(明治38年刊)
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JR水戸駅/明治22年の「水戸鉄道」(現在のJR水戸線)の開通により、水戸城と千波湖に挟まれた地に「水戸停車場」が設置されて、市街化整備のため千波湖の一部の埋め立てを実施。(銅版画に描かれた水戸停車場の背景には千波湖の姿)



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水戸藩らーめん/徳川光圀公は「大日本史」編纂のために、中国から招いた儒学者・朱舜水から中国麺の教授を受け、小麦粉と藕粉(ぐうふん=レンコンの粉)を混ぜ合わせた異国の麺を作り、『五辛』を添える。『五辛』は、にら、らっきょう、ねぎ、にんにく、しょうがの五種類で、五臓之気を発すると言われる。 元禄10年(1697)、西山荘に訪ねてきた日周、日乗というお坊さんや家臣たちに中国麺をご馳走したという記録が残る。(ラーメンの左横の小皿に乗るのが五辛)

*無断転載・複製を禁ず







 


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